ちょっと待って!マインドフルネスやメディテーションに問題あり

マインドフルネスに先駆けて取り組んでいた有名企業の一部の企業ではすでにメディテーションを取りやめました。それには大きな問題があったことが判明したからです。

基本的に中国にルーツがある気功は、生命の本質を動くことに見いだします。それだけに日頃のビジネスに気功が深く関わり、活用しようとやっきになっている姿を見ることもできます。

それに対してマインドフルネス・メディテーションは生命が固定していると理解しているはずです。原型を提供したヨガが目指すのは永遠の静止で、仏教にも色濃く受け継がれており、日本文化にも入り込んでいるので、おわかりになるでしょう。

先進的な取り組みをした企業では社員たちが問題を解決しなくても、すでに幸福という報酬を得てしまう現象が生じたそうです。つまり仕事は前に進みません。進捗が出なくても、営業成績が振るわなくても彼らは幸福感を持っているのです。

多くの企業が下した結論は幸福感は生産効率に寄与しないというものでした。また逃げ場所を提供しているという指摘も成立するかも知れません。問題解決のストレスから逃避し、解決しなくてもストレスを緩和できるという考え方が成り立ちます。

カルトを語るときに問題になる変性意識とメディテーションには深い関係があります。社会に波風を立てるカルトの信者たちに偏差が見られるという専門家がいます。

偏差と聞くと、カルトの通念と結びついて、非常識な反応や非常識な行動と理解してしまいます。その結果、偏差とはおかしな行動や言動をして暴れることだと考えます。しかし、その理解は誤りです。

偏差とは気が狂うことではありません。偏差とは現実と非現実との境目がズレてしまう認識のことです。誰にでも起こることであり、修正は大変です。

ですから宗教的認知の獲得も偏差の一種である場合があります。そのため唯物史観的に考える人たちが宗教をドラッグなどと同じだといったり中傷したりすることになります。

さて、メディテーションは非日常的感覚を利用します。ゆったりと座って自分の意識に集中することで、日常感覚を遮断します。そうして非日常と日常を行き交うとリフレッシュします。

逃避場所として非日常的感覚は魅力一杯です。まったく違う感覚を刺激することで、感覚全体をリフレッシュすることができるからです。宗教によっては、新生体験と呼ぶほど強力です。

非日常が東京ディズニーランドのように仕切られた場所であれば、その場所を離れることで現実に戻れますし、日常をディズニーランドに変化させるのはそうとうな無理があるので安全でしょう。

しかし、メディテーションはディズニーランドの日常化よりもはるかにコストが低い点が問題なのです。普段は場所と時間を決めてメディテーションしていても、必要とあればどこでもできるからです。

確かにストレス状況や目の前の問題に執着はしなくなりますが、執着しない状態に執着してしまう可能性を無視できません。つまりメディテーション状態を逃避場所として確定してしまう状態です。

問題が生じ、ストレスを感じる度にメディテーション状態に逃避を繰り返すと、遅かれ早かれ非日常的感覚が優位になり、物事を認知する枠組みが非日常の世界にズレ込みます。

もっと酷い結果も有り得るでしょう。何かの体験を抑圧して心の奥底にしまいこんでいたりしたら、それを押さえている内的規制が取り除かれるので、幻覚が消えなくなるというリスクも考えなければなりません。

青年期を過ぎてからメディテーションなどを使ってそのような事態を引き起こしたら、治療方法はないそうです。語られることがなくても物事のリスクは必ずあるものです。