見解の相違ではないか?武術を格闘技から区別する思想背景が大切

格闘技と武術とではいったい何が違うの?という質問を見学された方たちから受けます。あるいは柔道などの日本の武道と違うのはどういうところ?といったものもありました。

特に太極拳の場合は、早朝に中国の公園で高齢者たちが集まって、ゆっくりと動いているというイメージが強く、武術なんですよと言えば必ず、類似したものとして格闘技や日本の武道を引き合いにされます。

体操ではない太極拳は、そのような近接した概念はどのように違っているのかをここで少し考えてみましょう。

ボクシングなどの格闘技は自他が分離しているのが特徴です。原則的に雌雄を決するための勝負事であって、その前提には相手は自分とは別の存在だとの考えが見られます。

もっとも明確な点は同じルール、同じ条件で互いの力を競うということになるでしょう。相手は自分と同程度以下の競争者であると考えます。それを試合などを実施して決定します。

格闘技は決着による分離・区別を指向するといえます。相手は自分とは異なっており、何らかの点で相手が自分より劣っているはずだという考えがなければ成立しません。

対して、武術は共存を目指すという達人は少なくありません。あるいは中国武術は自他の交流だとも言われます。これはどういうことでしょうか。

東洋思想の根本のところは陰陽の考え方です。すべては陰陽をもっており、陰陽から生じたなどといった具合に説明します。ここで注意していただきたい点は、日本式陰陽では陰陽は互いに反発する別物だというように考えますが、中国では少し違っているところ。

中国式の陰陽の特徴はは互いを区別して互いを求めて、運動し続けると捉えます。ですから陰陽はばらばらにならず、いつまでも陰陽の状態を維持しながら、全体を形成しています。

関係は入れ替わり、陰陽は巡ります。日本式の陰陽を男女に当てはめれば、不適当な見方になりかねませんが、中国式であれば、男性と女性は区別しながら、互いに惹かれ合い、全体として一つの何かを形作ると考えられます。

これは中国武術の世界でも同じで、自分と相手とを陰陽で理解します。ですから雌雄を決するとか勝負をつけるといった感覚は少し違ってきます。相手を排除するのではなく、支配を拒否するのが目的になります。

つまり、武術は本質的に相手との交流であり、関係を維持する状態を求めます。そこには同じルールは前提ではないというのが大きく関わっています。相手は何を隠し持っているかわからないのです。

ですからいつも相手がより優れているという不問律があります。相手は自分より優れた技術を獲得していると前提する方が安全です。正体不明なものと対戦するプレッシャーが武術にはあります。

日本の武道と中国武術とでは扱う対象の範囲が違います。日本の武道は武士たちの技芸を元にしたものが多くあり、武士としての規範をそのまま採用しているのでしょう。

日本の武道は髙德な精神性を技術とセットにして求めなければなりません。どの道場に入門しても、武道家としての心構えみたいなものを要求されます。

この点も中国武術は違います。武徳を求めずに武術は完成しないとは言いますが、技術指導とともに精神性の指導はありません。中国武術の善悪の責任は、その技術を用いる人に求められます。

単に相手を倒すことだけを考えるなら化学を学ぶべきです。最強と言われた武術かも毒で一発で死んでしまった例が証明しているように、武術では毒殺に対抗できませんね。時々、そのような質問を受けることがあり、そのように単に他人を傷つける強さだけを求める生徒に注意を促します。

武術は他人を倒す技術体系ではなく、使う人の責任で使うものです。