身体の働きに注目するから?内家拳は内功がすべてだという結論になる

中国拳法で普通に用いられる用語で一番理解が困難だと思われるのは「内功」という言葉でしょう。内功は場合によっては精神論のように聞こえることもあり、そのように勘違いしている人も少なからずいるようですが、内功は旧日本式の根性論とは違います。

確実な効果を求める中国では、根性論ではなく、むしろ効果と結びついた技術の物理的ではない部分を指す用語です。

内功という言葉は単純な何かを意味するのではなく、その内容はいくつかの意味で用いられるのが特徴です。この辺りの事情は言語に対する意味の区切りが文化に依存しているのが原因でしょう。

身体メカニズムに基づいたテクニックがもっともわかりやすい内功だといえます。いろいろな形の使い方の説明をするときにも内功という言葉を用いるのです。

そしてその内功には共通した意味を見いだすことができます。それらが内功を重要視したときの身体操作のコツになっていると考えられます。

身体を無理な方向に曲げないと言われればそれまでのように思ってしまいますが、意外と普段の生活では関節を不自然な方向に曲げようとしているものです。もっともはっきりと不都合が出るのは腰の使い方と膝の使い方です。

関節はそれぞれ動かせる方向があります。腰の関節は「臼関節」であって、回転はしますが、曲げることはできません。しかし、あまりにも無警戒に腰を曲げてしまっているようです。

もう一つ目立つのは膝の関節です。膝は横方向には曲がりません。若干の遊びが関節にあるので、それを曲がっていると勘違いしているのでしょうか。あるいはそれがかっこうよいとでも言うように堂々と曲げて歩いている人を見るととても気の毒に思えます。

これらの関節は軟骨が十分ある間は、それをすり減らして頑張ってくれます。しかし、その頑張りが尽きてしまうと途端に痛みを発して警告を始めます。足裏の疲れが決定打になりでもしたら、途端に身動きできない痛みに襲われるでしょう。

内功は身体を支えるための構造に基づいた動作が大切だと教えています。腰は左右に回すときによく働き、自らを正しい形に整形する働きを始めます。つまり正しい動きは補修機能を活性するわけですね。

かがむときは腰ではなく、股関節を使って姿勢を作るのが身体の構造的に正しいといえます。これらのコツを踏まえた身体操作は思いがけない事故から身体を守るという役割を期待できるでしょう。怪我をしてたとえ数日でも動けなくなることは老化に直結するので、身体を事故から守るのはとても大切です。

熟練度による強さも内功です。身体操作を上手にできるのは、身体の動きが滑らかに見せます。その結果、見た目の若さに繋がります。ですから、理解しただけでなく、実際に身体操作を繰り返し練習するのは大切なのです。

手慣れた職人のような動きを目指すと言えば、わかりやすいでしょう。無駄な力が入っておらず、無駄な動きもなく、ある種の美しさを持っているのを想像できると思います。これがとても大切です。

身体を無意識に使わないというのも大切なポイントです。注意したいのは反動を使わないという決意でしょう。反動を使うと大きな力を出したように思えますが、それは自分の身体にも大きな負担を掛けています。なので事故の原因の一つになります。

内気力はイメージに身体が従う力を意味します。もっとも分かりづらいかも知れませんが。潜在している身体の力を思い出すことで獲得できます。

赤ん坊は手を使わずに寝返りを打つのをご存じでしょうか。そのような力は忘れられているだけで、今でも私たちの中に残っています。これを使うことで新たな力を獲得したのと同様の効果を得られます。

どれも同じだと聞いたよ?伝承の歴史が多くの流派を生み出しました

日本に太極拳を伝えた最初期の人に、太極拳はどれも同じという人もいるのは事実です。だからこそどの太極拳でも同じだと思って、始める人も少なくありません。

日本に伝わった太極拳にも多くの流派があります。実際に選ぼうとすると困ってしまうほどです。同じだと思って始めるのはよいのですが、一生懸命になったあまり、身体を壊してしまったという本末転倒した経験を持つ人も実は多いのです。

太極拳は、ゆるゆると練習して気長に付き合うのが原則だから、一生懸命になるのが誤りだという指摘は、そうかも知れませんが、そのような人を目の前にすると悲しい思いに駆られます。

あまりに多い太極拳の種類をここで網羅するのは困難です。ですから、全体的な太極拳から有名な流派をいくつか取り上げて、説明することになります。

中国武術としての太極拳は内家拳なので、いずれの太極拳も内家拳です。外家拳であれば、西洋思想と同様の筋骨主義で、筋肉トレーニングをして基礎力を養いますが、内家拳は違います。

内家拳は内功と呼ばれる内部を持ちます。広い意味では、内功は技術、知識、用法などを含みますが、狭い意味では、内家拳の基礎力を指します。

そのため内功の養成が必要になります。内家拳らしい方法しては気功を学ぶという場合が多いようです。その結果、求める基礎力にも違いが生じて、各流派の風格を作り出します。

伝統拳として代表格の一つである陳式太極拳は纏絲勁(てんしけい)を用いますので、それにふさわしい練習方法を取り入れますし、その結果身につく力も陳式らしいものになります。

一方、楊式太極拳では抽絲勁(ちゅうしけい)をいますので、柔らかさを追求した動きを身上にします。ひたすら柔らかい太極拳のイメージはこの楊式太極拳から来ているようです。

そして日本でもっとも入門者が多いと言われる簡化24式太極拳は、別名「制定拳」といわれ、1956年中国の国家体育運動委員会の指導で制定されました。

制定拳はしかし、武術として考案されたものではなく、国民の健康増進のための体操として企画されました。従って、内家拳に分類して良いのか、そもそも武術なのかと問えば、即答するのが難しいものになってきます。

その他にも伝統拳に分類されるものに、初めて太極拳を体系化武式太極拳、実戦志向の呉式太極拳、中国内家拳の総合ともいえる孫式太極拳などを挙げる人も多いでしょう。

武術としての要件を備えた伝統太極拳だけでも、これら以外にまだまだ数が多いです。インターネットを検索すれば、聞いたこともないような太極拳に出会えると思います。

伝承した人の考え方によって変化しても、太極拳だということですね。つまり内功は違っても流派は変化しないが、見た目が変われば流派が違うという不思議な面を持っています。

それでも内家拳としての太極拳にとって大切なのは内功なので、流派が違っても優れた内功を求めれば良いのです。教室によって内功を重視しているところと、そうでもないところとが実際あります。

もし内功を重視しない教室に入門してしまったら、早晩問題を生じることになるかも知れません。あるいはその教室の内功が気功であれば、例えば「五禽戯」や「十八段錦」など制定拳と同じく中国政府が制定したものを用いてる場合も多いようです。

入門前に、教室の先生に相談して始める慎重さが必要かも知れません。私のついている先生は昔何度も「三年師を求める」というようなことを言って、先生を選ぶことの大切さを説いていました。

太極拳であれば、違いがあっても太極拳なのでしょうが、その小さな違いが大きな要素になっている可能性があります。]

見解の相違ではないか?武術を格闘技から区別する思想背景が大切

格闘技と武術とではいったい何が違うの?という質問を見学された方たちから受けます。あるいは柔道などの日本の武道と違うのはどういうところ?といったものもありました。

特に太極拳の場合は、早朝に中国の公園で高齢者たちが集まって、ゆっくりと動いているというイメージが強く、武術なんですよと言えば必ず、類似したものとして格闘技や日本の武道を引き合いにされます。

体操ではない太極拳は、そのような近接した概念はどのように違っているのかをここで少し考えてみましょう。

ボクシングなどの格闘技は自他が分離しているのが特徴です。原則的に雌雄を決するための勝負事であって、その前提には相手は自分とは別の存在だとの考えが見られます。

もっとも明確な点は同じルール、同じ条件で互いの力を競うということになるでしょう。相手は自分と同程度以下の競争者であると考えます。それを試合などを実施して決定します。

格闘技は決着による分離・区別を指向するといえます。相手は自分とは異なっており、何らかの点で相手が自分より劣っているはずだという考えがなければ成立しません。

対して、武術は共存を目指すという達人は少なくありません。あるいは中国武術は自他の交流だとも言われます。これはどういうことでしょうか。

東洋思想の根本のところは陰陽の考え方です。すべては陰陽をもっており、陰陽から生じたなどといった具合に説明します。ここで注意していただきたい点は、日本式陰陽では陰陽は互いに反発する別物だというように考えますが、中国では少し違っているところ。

中国式の陰陽の特徴はは互いを区別して互いを求めて、運動し続けると捉えます。ですから陰陽はばらばらにならず、いつまでも陰陽の状態を維持しながら、全体を形成しています。

関係は入れ替わり、陰陽は巡ります。日本式の陰陽を男女に当てはめれば、不適当な見方になりかねませんが、中国式であれば、男性と女性は区別しながら、互いに惹かれ合い、全体として一つの何かを形作ると考えられます。

これは中国武術の世界でも同じで、自分と相手とを陰陽で理解します。ですから雌雄を決するとか勝負をつけるといった感覚は少し違ってきます。相手を排除するのではなく、支配を拒否するのが目的になります。

つまり、武術は本質的に相手との交流であり、関係を維持する状態を求めます。そこには同じルールは前提ではないというのが大きく関わっています。相手は何を隠し持っているかわからないのです。

ですからいつも相手がより優れているという不問律があります。相手は自分より優れた技術を獲得していると前提する方が安全です。正体不明なものと対戦するプレッシャーが武術にはあります。

日本の武道と中国武術とでは扱う対象の範囲が違います。日本の武道は武士たちの技芸を元にしたものが多くあり、武士としての規範をそのまま採用しているのでしょう。

日本の武道は髙德な精神性を技術とセットにして求めなければなりません。どの道場に入門しても、武道家としての心構えみたいなものを要求されます。

この点も中国武術は違います。武徳を求めずに武術は完成しないとは言いますが、技術指導とともに精神性の指導はありません。中国武術の善悪の責任は、その技術を用いる人に求められます。

単に相手を倒すことだけを考えるなら化学を学ぶべきです。最強と言われた武術かも毒で一発で死んでしまった例が証明しているように、武術では毒殺に対抗できませんね。時々、そのような質問を受けることがあり、そのように単に他人を傷つける強さだけを求める生徒に注意を促します。

武術は他人を倒す技術体系ではなく、使う人の責任で使うものです。

どうして武術?どれだけ戦える身体なのかが健康のバロメータです

一年前の初夏、同年代の友人が脳溢血で倒れたという報せがあり、驚きました。左前頭部に溢血を起こしたためそれ以降、言葉が不自由になってしまいました。まだ50代前半なのに大変です。

人間は老化するとさまざまな障害を持つようになると年寄りは言いますが、身体のどこから弱っていくかといえば、意識的に使わない部位から老化します。

命に問題がないようなところ、一番イメージしやすいのは足。足から弱っても生命の存続に関わらないですよね。だから生命活動は省エネのために意識しない部分を不要だと判断するといいます。

若返る身体とは、動ける身体を確保すること。でもそれだけでは困ります。動ける身体を支え導く精神が必要だからです。この場合の精神力とは気持ちだと言い換えられるでしょう。そうでなければ、身体は健康でもやる気や根気、集中力をなくしてしまいます。

動ける身体と精神力が必要です。案外気づかないのは、身体に問題があると気持ちがしっかりしないという状態でしょう。高熱が出ていても勤務できる精神力が求められていても実は、単に先天気を蝕んで悪化させてしまう危険が高いのです。

ダメージを受けた精神の回復は、身体の改善より困難です。失恋を癒やす薬がないと言ったりするのはこのためです。気持ちがついてこないのは人間の本質かもしれませんが、日本では特に無視される傾向にあります。

精神と身体とが整えられた身体とは臨戦態勢にある身体ですから、戦える身体は使える身体ということになるでしょう。大きな精神力を必要とせず、身体を整える技術があれば役に立つはずです。

気持ちが弱っていても、練習できる。多少身体が弱っていても、練習できる、そのような具体的手段が若返りに効果的なのですが、健康な身体を作る条件を考えておきましょう。

必要以上の負荷は逆効果になります。短期的に頑張っても、翌日まで残る疲れは積み上がります。たとえ若くても回復には時間が掛かります。特に最近の若者の相談にそのような事例が増えてきたように思えます。若さに頼るのは危険でしょう。

そのように疲労が蓄積した身体では、遅かれ早かれ病気・怪我で破綻します。すると運動できない期間が生じます。これが武術では大問題になります。その期間に攻撃を受ければ、ひとたまりもないからです。

それだけに実践的な武術は、日々の健康管理に慎重です。疲れを翌日に残さない程度の運動が大切になります。そうすれば、訓練を継続でき、積み上げることが可能になるからです。

残念ですが、いわゆる体操は特定の動きに偏りやすいといえます。現代の問題に特定した対策として考案された場合が多く、結果として特定の効果だけを追求したものになりがちです。

太極拳がお勧めな理由もここにあります。太極拳は全身を使う武術です。拳だけを、あるいは脚だけを重点的に使う格闘技ではありません。全身が使用できる状態に保つという要求があります。

翌日に疲れを残さない練習が可能なのは皆さんもご存じの通りで、ゆっくりとした練習方法は筋肉に過剰な負担を掛けない動作であり同時に脳の運動野に速やかに刺激を伝えます。

練習の要諦としても初心者から、気を巡らすために全身に意識を充満させるイメージを要求されますので、無意識になったままになる身体部分が少なくなります。

生徒さんたちにお勧めししているのは、身体や気持ちが辛いときには、週に1回の練習参加で現状維持して、少し気持ちが進むときはもう1回練習に参加することで身体を養うというパターンです。

この方法は思っている以上の効果なので、生徒さんが驚いてしまうようです。効果を確認できる、さらなる若返りに効果絶大なのです。

ちょっと待って!マインドフルネスやメディテーションに問題あり

マインドフルネスに先駆けて取り組んでいた有名企業の一部の企業ではすでにメディテーションを取りやめました。それには大きな問題があったことが判明したからです。

基本的に中国にルーツがある気功は、生命の本質を動くことに見いだします。それだけに日頃のビジネスに気功が深く関わり、活用しようとやっきになっている姿を見ることもできます。

それに対してマインドフルネス・メディテーションは生命が固定していると理解しているはずです。原型を提供したヨガが目指すのは永遠の静止で、仏教にも色濃く受け継がれており、日本文化にも入り込んでいるので、おわかりになるでしょう。

先進的な取り組みをした企業では社員たちが問題を解決しなくても、すでに幸福という報酬を得てしまう現象が生じたそうです。つまり仕事は前に進みません。進捗が出なくても、営業成績が振るわなくても彼らは幸福感を持っているのです。

多くの企業が下した結論は幸福感は生産効率に寄与しないというものでした。また逃げ場所を提供しているという指摘も成立するかも知れません。問題解決のストレスから逃避し、解決しなくてもストレスを緩和できるという考え方が成り立ちます。

カルトを語るときに問題になる変性意識とメディテーションには深い関係があります。社会に波風を立てるカルトの信者たちに偏差が見られるという専門家がいます。

偏差と聞くと、カルトの通念と結びついて、非常識な反応や非常識な行動と理解してしまいます。その結果、偏差とはおかしな行動や言動をして暴れることだと考えます。しかし、その理解は誤りです。

偏差とは気が狂うことではありません。偏差とは現実と非現実との境目がズレてしまう認識のことです。誰にでも起こることであり、修正は大変です。

ですから宗教的認知の獲得も偏差の一種である場合があります。そのため唯物史観的に考える人たちが宗教をドラッグなどと同じだといったり中傷したりすることになります。

さて、メディテーションは非日常的感覚を利用します。ゆったりと座って自分の意識に集中することで、日常感覚を遮断します。そうして非日常と日常を行き交うとリフレッシュします。

逃避場所として非日常的感覚は魅力一杯です。まったく違う感覚を刺激することで、感覚全体をリフレッシュすることができるからです。宗教によっては、新生体験と呼ぶほど強力です。

非日常が東京ディズニーランドのように仕切られた場所であれば、その場所を離れることで現実に戻れますし、日常をディズニーランドに変化させるのはそうとうな無理があるので安全でしょう。

しかし、メディテーションはディズニーランドの日常化よりもはるかにコストが低い点が問題なのです。普段は場所と時間を決めてメディテーションしていても、必要とあればどこでもできるからです。

確かにストレス状況や目の前の問題に執着はしなくなりますが、執着しない状態に執着してしまう可能性を無視できません。つまりメディテーション状態を逃避場所として確定してしまう状態です。

問題が生じ、ストレスを感じる度にメディテーション状態に逃避を繰り返すと、遅かれ早かれ非日常的感覚が優位になり、物事を認知する枠組みが非日常の世界にズレ込みます。

もっと酷い結果も有り得るでしょう。何かの体験を抑圧して心の奥底にしまいこんでいたりしたら、それを押さえている内的規制が取り除かれるので、幻覚が消えなくなるというリスクも考えなければなりません。

青年期を過ぎてからメディテーションなどを使ってそのような事態を引き起こしたら、治療方法はないそうです。語られることがなくても物事のリスクは必ずあるものです。

太極拳ならすべて共通!上達の前提としてのファンソンを理解する

力を抜こうと思えばできるのですか?そんな馬鹿げた質問を教室の先生にぶつけてみました。先生は「できるけど、むずかしいね」と答えました。その先生がとても正直な人柄だということは分かります。

でも、どうすれば良いのかはさっぱりわからないままです。力はただ何の工夫もなく力を抜こうとしても抜けません。だって無意識のうちに緊張が染みついたように身体の中で頑張っているのですからね。

あまり考えないことかも知れませんが、身体は立った状態を維持しようとします。別の先生がこっそりと、立っているときは倒れようと思わない限り倒れないと教えてくれました。その先生はもうずいぶん前にファンソンをあきらめたと言ってました。

なぜそうなのか、しばらく考えてみました。姿勢の維持に力が必要であれば、無意識に力が入るからだと気づいたのはだいぶ立ってからです。立っている姿勢そのものが緊張を要求します。

それならば、立ったままでできるリラックスだというのは、矛盾しているようですが、同時にヒントにもなっていますね。つまり立ったままでのリラックスは特定の状態を指しているはずだからです。

リラックスならなんでも良いという訳ではなさそうです。実際力が抜けた状態はファンソンではないともいいます。その理由はあまりにも当然のことです。力を抜くことに意識を集めると動けなくなるからです。

これらの条件を考え合わせて、見つけた方法をここでみなさんにお教えしますね。慌てないで一つずつじっくりと読みながら、やってみて、身体の反応に注意してみてください。

ため息をつくとお腹が前後にわずかですが膨れます。この状態のお腹の辺りを今、丹田と呼びますと、前後に膨れたお腹を維持するのを意守丹田というふうに呼ぶことになります。

単にイメージするだけだったり、なんとなく思ったりではなく、具体的な身体操作を指しています。ほとんどすべてはこんな調子で具体的に実験的操作になっています。

そしてかかとの真上に丹田が来るように注意します。丹田とかかとのラインが維持できるようにバランスをとりますが、これに習熟すると動作の軸を感じるようになってきます。

次に、丹田を下げれるところまで下に押しつけるようにしてみましょう。膝が地面に対して直交していると、わずかに下がるだけでほとんど沈まなくなるでしょう。それで大丈夫です。

股関節がだんだんと緩んでくると、下に下がる度合いが増えてきます。大切な点は膝を曲げて力を逃がさないのがポイントです。丹田が生み出した力は一旦地面に降りて、その後、丹田に戻って全身を巡ります。膝で力を逃がすと全身を使えません。

このような練習に慣れると意識を動かすだけで、可能になってきます。完成したイメージを頭で再現して、感じるようにするだけで、身体が従うようになります。

これが太極拳・気功の放松のやり方です。このようにして中丹田を実にすると上下丹田は虚になります。つまり心臓や緊張のもとである上下の隣接した丹田は力が抜けるようになります。

実になっている部分の周囲は力が抜けるのが虚実の原理です。そして周囲の身体は実になっている丹田に寄りかかるようにして姿勢を維持できるようになっています。

太極拳がこのような練習を立ったままで行うのには大切な理由があります。中にはどんな姿勢でも同じだと説明する先生もいらっしゃいますが、それは慣れた人の話でしょう。立ったままで体感するのが一番簡単な方法なのです。

多くの生徒さんたちにこの方法を、教えてみましたが、ほぼ全員が不思議な感覚だと言います。メソッドとできたときの感覚が必要だったのですね。

ここが違う!ファンソンと単なるリラックスとは似て非なるもの

メディアでも話題になっているように、日常的にさらされるストレスの蓄積が身体の抵抗力を阻害し、免疫力を低下させています。気づかないほどにわずかずつ受けるストレスが積もりあがって問題を生み出します。

どこにでも充満しているストレスに対抗するためには、簡単でどこでもできる対抗策が必要かも知れません。リラックスのためにどこかに逃避するのではなく、今ここで可能な方法です。

リラックス法、ヨガ、座禅、放松など…どれも習得が難しいのは間違いないでしょう。方法が複雑だからではありません。私たちの社会が要求する効率性が私たちの心の奥に固まってルールになっているからです。

効率性のルールはリラックスを許しません。リラックスをしているのとだらだらしているのは非常に似て見えるからでしょう。それでも私たちはどこかで気づいています。身体は限界に近づいて悲鳴を上げているからです。

メディアなどで取り上げられる頻度が高いリラックス法といえば、座禅やヨガがメジャーでしょう。放松と比較するためにまず、ヨガや座禅による方法をおさらいします。

主にヨガや座禅によるリラックスでは運動感覚を問わないのが普通です。どちらもリラックスのための修行ではなく、修行のための業法ですが、リラックスするために現代人に用いられます。

ただどちらも無になることを目指すので、何かに用いることは考慮されていません。つまり悟りを目指すためのツールであって、その部分だけを取り出したのでは、ただリラックスするだけのものになります。

さらに日常から切り離して行われることが多いといえそうです。近所のヨガ教室であれ、座禅所であれ、それらは日常の空間ではありません。空間が区別されており、一旦そこを出てしまうと日常のストレスの中に引き戻されてしまうのです。

基本的にどちらも観念的で抽象的な言葉が用いられるのも共通しています。宗教的な用語を用いて説明するので、理解することはできても体感とは簡単に結びつかない可能性が高いでしょう。

ただそれらを学ぶ場所は増えてきています。ブームなんですね。さまざまな種類が考え出されて、学習者の便宜を図る段階に来ているのはありがたいでしょう。気軽に体験で参加できるのは魅力です。

一方、日本ではまだメジャーになっていないのは放松です。気功は明治時代に日本に伝えられたと聞きます。残念ながら文化の違いを乗り越えることができず、とても日本化されてしまったようです。

そもそも気功は生命力を養うという明確な目的を持っています。ですから直接的に呼吸のことだと考えてしまったり、あるいは概念の違いで片付けてしまったのは残念なことでした。

放松は寄りかかるための核を体内に見つけ出して用いるので、日本文化に依存した中国語の理解では、さまざまな問題を生じるのは当然でしょう。

「丹田に意識を集める」ことから始めます。これをそのまま日本語だと考えて失敗しているのです。丹田とはお腹のことでした。そして意識を集めるとは、なんとなく考える意味だと思うと効果を期待できません。

中国語の世界では現実的で具体的な言葉が用います。ですから意識を集めたときにどうなるのかということに焦点を当てて理解する必要があります。お腹が温かいとか、冷たいとかを感じることから始めるのが良い方法でしょう。

太極拳や気功で用いる基礎技術ですから、その後、身体操作を伴う日常の動作でも同じように利用することができ、生活の場、職場などの日常的な場で役に立ちます。

ヨガなら教室を比較的簡単に見つけられますが、動ける身体を求めるのは放松です。つまり生活の中で活用の範囲が広いのは放松だといえそうですね。

先端生命科学も発見した!丹田は生命力を宿すお腹の中にあった

太極拳は東洋の技芸の1つなので、東洋思想に裏付けられた用語を用います。ヨガなどの用語にチャクラという概念があって、彼らはそれをエネルギーセンターと説明するようですが、中国思想の枠組みでもよく似ています。

そこで太極拳の丹田は何が違うのかと質問を受けることがありますが、概念そのものは同じといってもよいほど似ていますが、数と場所が異なっており、チャクラの数が圧倒的に多く、またそれぞれが小さいもののように描かれます。

太極拳が用いる丹田はそれほど多くなく、上中下の3つです。これは天人地にそれぞれが応答しています。ただそれぞれが全く独立したものではなく、それぞれの丹田に他の丹田の要素を見いだすことで関係づけられます。

ですから太極拳や仙道では中丹田を主に養います。中丹田が充実した後、上丹田の鍛錬に移ります。この手順を不適当に済ませて、上丹田や下丹田の鍛錬に手を出すと、問題を生じてしまいます。

そこで中丹田ですが、日本語で説明すれば、お腹の中心部分を指す言葉です。顔や胴体などと同様、構造全体に対して名付けられた名前なので、特定の部分で置き換えることはできません。

丹田、つまりお腹が人間の生命の根幹になっています。最新の医学が再発見したのは、一番最初に形作られるのは胎児のお腹だという事実です。

なぜ、頭よりも先にお腹が形成されるのかについて最新医学でも答えることはできていませんが、東洋思想は丹田が生命維持にとって重要なパーツだからだと考えます。

お腹は大脳から独立して活動しています。生命維持に関わる食事による栄養吸収、あるいは排泄機能のコントロールは大脳ではなく、大腸などが中心になっている神経ネットワークが決定しているそうです。

むろん、お腹が脳から断絶して身体を支配しているのではありません。それぞれがネットワークで結ばれており、相互に情報をやりとりして身体を支配しています。

このようなネットワークによって他に繋がっておりながら、独立した働きを持つまとまりが丹田の正体です。もっとざっくりと考えれば、横隔膜内に治まっている範囲を中丹田といいます。

さて健康と若さをコントロールしているのは中丹田(お腹)と考えられます。中丹田には先天気と呼ばれる気を親からもらっているのですが、これは年齢を重ねることで失われていきます。

経験的に知られている事実としては歳を重ねると苦労の記憶が優位になります。もともと幸福な記憶を保持するより困難の記憶がたやすくなっています。これは生命の生存に関わる記憶によって危険を回避するためです。

お腹がセロトニンを作り出すから幸福感を持つと分かりました。体内のセロトニンのほぼすべてがお腹で産生します。お腹の調子が気分に大きく影響しているのは、毎日の自分の感情を観察することで気づけます。

中丹田を養うことで、幸福感が増大する理由はこれです。メディテーションでも同じように幸福感が増大します。それはメディテーションが脳活動を低下させることで、お腹の働きを優位にしている結果です。

栄養の吸収と排便は肌の状態と大きく関わっています。便秘気味だと吹き出物に困る経験があるでしょうし、お腹が渋るときに思考能力はふるいません。中丹田の調子はお肌や思考能力にすら影響を与えているのです。

お腹の働きで身体を若返らせるために、食事と運動がポイントになり、丹田を養うのにも食事のケアと太極拳がふさわしいです。伝統の太極拳は丹田に刺激を入れながら、全身に気を巡らせることを目的にして編集されているからです。

中丹田を養うことで若さと余裕を取り戻すことが可能であり、同時に動作のバランスを向上する結果を得ます。

それが秘訣だ?むしろどうすればできるのかが極意へのカギだった

脳科学の発達は、リラックス状態にさまざまな効果があることを明らかにしてきています。いわく幸福度を高めるだけではなく免疫力を強化します。さらには健康そのものを増進する効果が確認されました。

そのときの脳波は何かに集中していない状態を示しているそうです。つまり脳波がアイドリングしているときには身体もアイドリングしているのですね。脳と身体のアイドリング状態が健康に貢献するので大切なスキルになるといえます。

貧乏揺すりにはリラックス効果が認められます。あまり積極的な意味では歓迎されませんが、言われてみれば、ある種の緊張状態を強いられた人がいつのまにか貧乏揺すりをしているのを見かけるのに気づかれるでしょう。貧乏揺すりで、極度の緊張状態を回避しようと無意識に身体は動きます。

長時間、同じ姿勢を維持することで生じる障害の一つとしてセカンドクラス症候群と呼ばれて知られるようになりました。身体は動かないことで大きなストレスを受けます。床ずれも同じ理由によります。病床で辛い思いをする床ずれも動かせない身体の結果です。

これらの現象は、心臓と身体とが同期していて動かない身体は血流を妨げるので起こります。知り合いの東洋医者は患者が意識する前に身体が反応していると言います。

つまり深くリラックスするために、人間の身体は動くことが必要だという結論になります。もちろん、このときに無酸素運動のような激しい運動は不要です。むしろ制御された小さな運動が効果的に作用します。

太極拳で楽に動く身体を手に入れるためには、リラックスした状態で動く身体を手に入れるのがさしあたり目標になるでしょう。しかし、残念ながら力を抜くのは難しい。しかも、指導者たちは意識することで力を抜くことを求めます。ですから疲れ果てて力が入らない状態は避けなければなりません。

現在のさまざまな教室では、何をどのように意識すれば良い結果を得られるかが明らかにされていません。力を抜こうと思えば、抜けるだろうというのがその思いでしょう。

実際問題は逆を向いています。職場のみならず、家庭においてもさまざまなストレスにさらされ続ける結果、いつもどこかに力が入ったままになり、筋肉は緊張収縮して血流をさまたげます。人によっては筋肉が骨のように固くなってしまっています。

到達した状況の表現ではなくメソッドが必要だと強く思います。そのことを指摘しても事態は変化しません。練習の度に同じ指導の繰り返しになったままです。ですから、正解がわからない状態で挑戦し続けるタフネスが必要になります。

手間と時間を掛けて登り切った後で、登頂した山が正しいのかを確認するようなものです。これでは、必要な身体を獲得する前に、心が折れてしまいます。

でも太極拳を長らく教えている先生だって実は正解が分からないという話を合宿の夜に聞いたのは衝撃でした。多くの指導者が自分でも身体的に感覚が不正確だというのです。

体感しなければ感覚を再現できないのが当たり前ではないでしょうか?先生たちは誠心誠意自分たちが教えてもらったことを伝えてはいるのです。しかし、太極拳の習得は身体感覚に頼った運動の学習です。

説明される理念だけではなく、感覚して学ぶことがメソッドが大切なはずです。ある日、体験参加にやってきた学生が私の手を持って声を上げました。「なんて柔らかい!」と。

私が心がけている指導はまず、驚きから入ることです。驚きは体験から生じます。そしてその再現のための要件の必要性を感じるのです。この必要性を感じるという段階をとても大切だと思います。知らずに何年も無駄にしないために、体験のメソッドが必要です。

本当なの?太極拳術十要をわかっても太極拳を習得できる見込みなし

ある教室で練習をしていたとき、そこに居合わせた先輩が太極拳を何年もやってもリラックスが身につかないと先輩たちが話してくれたのに驚きました。

自分よりも若い頃から太極拳に打ち込んで、今ではあちこちの教室で指導している先輩がたのほとんどが、太極拳で十分にリラックスできていると感じないと証言しています。

リラックスすることで、健康に、また職業上の効率化が望めるとマインドフルネスがもてはやされていることを考えれば、もはや太極拳では対処のしようがないということなのでしょうか。

なぜなら、リラックスは太極拳の効果を得るための必要条件です。ゆったりと流れるような動きに特徴があるとされる拳法ですからリラックスできないのなら、他の健康体操と違いはありません。

そのような事態に問題を感じているのは現代日本だけではなく、昔から課題であり、達人がまとめた要件が伝わっています。それは『太極拳術十要』と呼ばれたりします。

伝承によって多少違っていることもあるのですが、それらの項目を読んでみると、次のようなあるべき姿勢を指摘しているのが大半になっています。

「虛霊頂勁」は首がまっすぐ伸びて力が抜けていることを指し、「含胸拔背」は胸が反り返っていない状態です。「分虚実」とはどっしりした部分と、力が抜けている部分とがはっきり別れていることですし、「上下相隨」や「內外相合」は動きについて指摘しています。

「松腰」は緩んで柔らかい腰の使い方であり、「沈肩墜肘」は肩と肘が落ちている姿勢です。

確かに太極拳術十要の大半はあるべき姿勢を指示しているといえますが、この要件に従おうとすると大きな矛盾を抱え込んでしまいます。

姿勢を意識すると結局緊張してしまうという現実です。例えば、指を伸びやかに伸ばして、スキップをしようとしても、なかなか上手にはできないはずです。それは人間の認知的限界を無視しているからです。

人間の脳は同時に二つの項目を扱うことができないのです。右手と左手とで違う動きをさせるのは非常に負荷の高い運動なのはよく知られています。他にも、近くと遠くを同時に見れないのも同じですね。

太極拳術十要の問題点を簡単に言ってしまえば、条件を増やすとリラックスできないとなるでしょう。同時に二つのことでも困難なのに10個もの条件を同時に満たすことなど不可能なのです。

先輩たちの主張によれば、それだけ太極拳は奥が深くて難しいのだという結論になるようですが、それならもはや太極拳は、時代のニーズに応えられない代物です。

あるとき「条件を満たしたときに生じる効果である」と考えてみるようにしました。当然、結果と要因とを間違えれば、うまくいくはずがないのです。太極拳術十要で語られている要素は、獲得の条件ではなく、何かを獲得することによって得られる効果の指標のようなものではないか、というふうに考えたのです。

あるいは最初に獲得すべき要素をその後、育てるための考え方を示しているのではないかとも考えられるでしょう。すると未知数のような重要な要素がどこかにあるはずです。

その未知の要素がなんであれ、もっとも肝心な基礎をまず獲得する必要があるでしょう。肝心な要素とは何かが問題ですが、基礎になり得るものです。

東洋医学では身体はどこかに寄りかかったときにリラックスできると教えます。もっともリラックスできるのは床に身体を横たえているときです。

十要によってリラックスを獲得するのではなく、リラックスを獲得して十要を追求するという方向になります。そして実は、太極拳は自分の身体の中に寄りかかれるものを提案しているのです。