これだから、実効する技法が日本ではファンタジーになってしまう

日本の臍下丹田と中国の中丹田とにある微妙なずれがあります。日本で丹田と表現すると、へその少し下辺りをイメージするようです。そして臍下丹田ですよねと必ず確認されます。

日本の臍下丹田と中国の中丹田とはいったい何が違うのか。丁度、臍下丹田のある辺りは中丹田が下丹田に接触する部分を指しているように思います。

そしてその部分が関係しているのは、下丹田で生成した「精」を「気」に変換する機能であるように思えるのです。中国式の気功では「精」も「神」も「気」に変換して中丹田に蓄えます。

日本人が求めるのは精で、中国人が求めるのは気という対立を経験しているかのようです。ある老紳士が真剣な面持ちで、「精」の相談をして来られたのですが、太極拳ではむしろ「精」を「気」に変えてしまうという不本意な結論に至りました。

呼吸法が日本式気功の中心的になっています。インターネットを検索すると「呼吸法」で多くの情報を得ることができるでしょう。そのような「呼吸法」と親和性が高い日本の気功の専門家と講習に同席した時、彼らが講師に質問したのは、

呼吸するのは鼻か口かと疑問に思ったようです。講師の答えは「自然呼吸だ」というものです。しかし講師の答えは少し焦点がずれてかみ合っていないように思えました。

意識しないという意味で自然呼吸と言っているのであって、口か鼻かという問いに答えていません。このようなナンセンスが中国との間にいつもあるということでしょうか。

日本の呼吸法と中国の気功とは別物です。日本の呼吸法は、仏教や武道の中から派生してきたとする研究家も多くいます。それに対して少なくとも気功という言葉が日本に伝わったのは昭和のことです。似ているからといって同じものだと思うのは短慮に過ぎるでしょう。

先天気と後天気という二つの概念は古くに日本に伝来して、時間を掛けて土着した言葉です。先人たちが研究を重ねており、漢方医学などでは、先天気を触ることはできないとされています。伝来してから研究している以上、それ以降は別の概念を作っていると考える方が良いかも知れませんね。

丹田呼吸は肺呼吸と違うという考え方が大切でした。口や鼻でする呼吸が肺呼吸です。意識をどこにもって行っても、それは肺呼吸です。丹田呼吸・先天呼吸は本来まったく新しい概念だと見なす必要があったのです。

文化は文化の外から評価できない立場をとるのが、文化人類学の基本で、文化の優劣を否定します。ですから、言葉の意味を辞書的翻訳で単純に理解すると誤ってしまいます。

日本的観念論は見立ての文化だと言われます。古典文学に目を通すと、比喩をうまく駆使して、さまざまな状況を表現している多様な美しさに心引かれます。

そのような文学的な素養は文化的にも影響していて、日本では判官贔屓といった価値観も成立するのですが、中国ではまったく理解されません。この点、実利志向の中国と評価を受けます。

文化的には中国の観念は概念と具体が強く結びついています。何かのものの喩えだとすれば、喩えられている何かがしっかりとあるという状態です。

そのような文化で継承されてきた、少なくとも伝統の、気功は西洋医学的な観念ではなく、陰陽五行思想で理解するべきです。文化とそれを支える思想とが一致するとき、文化は事実の生起した現象を事実として考えられるようになります。

気が力に変わる中国武術気功の文化背景で、相手を打つという気持ちや心構えを「気」とは呼びません。「気」が陰であれば、相手を打つといった「陽」にするため変換が必要です。転換できる陰陽は少なくとも同じ次元に属している必要があると考えるのが中国式です。